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SS:月雫の記憶

世界のどの場所でも、大地を見下ろす月の光はとても優しい。

夜空より降り注ぐ淡い金色の光を仰ぎ、私は瞳を閉じた。
遠い故郷も、この王宮も、あの異国の地でさえ、この光だけは変わらない。
やむをえず夜闇を旅するものを照らし、けれど休を取るものの眠りを妨げない。
鮮烈な輝きを持つ陽光とはまた違う、柔らかな光の穏やかさに、私はひとつ吐息をついた。


この地に戻ってより、もうすぐ2年。
あのひとは、変わらず私を迎えてくれた。
以前のように城の敷地より出ることは叶わなくなったが、こうして城内を歩き回ることを見咎められることはなかった。
城内ならば例え何かあってもすぐにわかるから、ということなのだろう。
私が一度連れ去られて以来、あのひとも私や娘たちの身辺に神経を尖らせているようだった。
私の妊娠が発覚してからは、特に。
私自身、少々過敏になっているのかもしれない。
そうでなければ、もう何年も見ていなかった遠い昔の夢を今更見た理由も思い当たらない。
私が生まれた時の夢など。


生まれてすぐ、産声すら上げることなく身罷った娘。
それが私だった。
だが母はそれを認めなかった。
天性の命術使いであった母は、娘の亡骸に無理矢理呪刻を刻み込んだ。
本来起動する筈のないその印に力が宿ったのは、私が紛れも無く母の娘だったからだろう。
近しい血、受け継がれた才、その双方が、母の妄執を受け止めてしまった。
結果、私は生とも死とも付かぬ状態でこの世に取り残された。
精神に大きな欠陥を抱えて。


貴女が幸せでありますように、と母は言った。
貴女の幸せが、私の幸せよ、と。
けれど、その「幸せ」の意味がわからなかった。


人の心がわからない。
誰かが笑っている時、どうして笑っているのかがわからない。
誰かが涙を流す時、どうして泣いているのかがわからない。
それでも喜怒哀楽という感情の意味だけは、何故か知っていた。
お父様とお母様を悲しませてはいけませんよ、という乳母の言葉をそのまま捉えた私は、周囲の人間を観察するようになった。
同じ表情をするように。同じように振舞うように。
宮廷という場所は、内心をひた隠しにする一方で、毎日がオペラ座の役者のように他者に見せるための感情を表現する場所でもある。無表情を通すことはできないのだ。


お前がいつも笑顔でいられるように、と父は言った。
お前の笑顔を守りたい、と。
だから、笑えばいいのかと思った。


社交界へ出る年齢になる頃には、それなりに時と場所を弁えた行動ができるようになっていた。
それでもどうしても反応の薄かったのだろうが、幼い私を知らない者たちはそれを大切に育てられた故の無垢と解釈したようだった。
ほんの一瞬反応の遅れる私は、おっとりとした穏やかな性格と思われていたらしい。
陰口を叩くものもあったようだが、少なくとも表向きは殊の外大切にされた。
そんな「宮廷には珍しい大人しく善良な娘」の噂は、あのひとの耳のも届いたらしい。
下心が丸見えの女性たちにうんざりしていたというあのひとは、金切り声とも同情を誘う涙とも色目とも無縁の私を大層気に入ったようだった。
良く側に呼ばれた。妹姫の女官長として、城内に留まるようにも言われた。初めて遭遇する感情に、私は戸惑った。
だから。あのひとに求婚された時も、私はただ黙って頷くだけだった。


私は笑えていますか、とあのひとに訊ねたことがあった。
とても綺麗な笑顔だ、とあのひとは笑った。
だから、その表情が正しいのだと思った。


そうして私はあのひとの妃となった。
生まれた娘には、この刻印は受け継がれなかった。
術士としての資質こそ高いものの、普通の娘だった。
それを感じ取った時、すっと肩から力が抜けた。
私はおそらく、生まれて初めて「安堵」した。
次第に成長し、動き回るようになり、たどたどしいながらも言葉を話すようになる娘。
どこか他人事のようにそれを眺めながら、それでも娘から目を離せない私。
かあさまのようになりたいの、と笑う娘の声をどこか遠く聞いた。

わたしのように、なりたいの・・・・・・?


常に命の魔力を循環させ続けることで生きている私は、この身体、この生命の在りようそのものが特異な魔術の結晶のようなものだ。
そんな私に興味を持った妖魔公は私の血を引く存在を欲した。
己の持つ妖の魔力と私を生かす呪刻を併せ持つ存在を。
私のことをどこで知ったのですか、と訊ねたら、こんな不恰好な命の在りようを見て判らぬ筈があるまいと、なんでもないことのように言った。
娘には受け継がれなかったことを話すと、ならば確実に遺伝するようにしてやろう、と笑った。
だが、神格守護たるタリスベル教国の血筋たる母の血に寄るこの魔力は、妖魔の血を拒んだ。
宿った胎児は聖と魔の力が溶け合い、拮抗し、その天秤が釣り合い、そして膠着した。
この子の中に渦巻く魔力は、おそらく発現できないものになるだろう。
この地で生まれた妖魔公との娘が殺されなかったのは、それ故に「危険はない」と判断されたからだ。
だが妖魔公はそれを理解していた。
釣り合う天秤が揺れた時どうなるのかも。
面白い、と彼は笑った。


変わった女だ、と彼は言った。
怯えるでもない、強がるでもない、喚くでもないのだな、と。
本当は、「不安」でどうすればいいのかわからなかったのだろう、と今は思う。


今この身に宿る子、この子にはきっと呪刻は受け継がれてしまうだろう。
妖魔公が私に刻んだ術は今も確かに私の中にある。
この子はどうなるのだろう。
普通の子として生きられるのだろうか。
それとも、私のように精神に歪みを抱えてしまうのだろうか。
私には想像も付かなかった。

けれど、叶うことならば。
貴方が幸せでありますように。
この月の光のように、貴方の未来が穏やかでありますように。

かつての母のように、私はそう願っていた。

 作者

さいか